働きたくねえ社畜パパの子育てと仕事の奮闘記!水面下でセミリタイアを目指す。

子育てと仕事を両立している働きたくない社畜パパです。社畜脱出を願いセミリタイアの実現にも取り組んでいくブログです。

【会社の人事評価】公平さはない!社畜の努力は実は関係ない。経営者・上司の気分と業績で決まるのだ。

 
どうしても働くことが好きになれない社畜パパ。
冷静になっても働きたくない。

今日は私のような社畜が理不尽な評価をかまされる、恐ろしき会社の人事評価の話し。

f:id:bairunn060012:20210526133557p:plain

 

①公平な人事評価だと!?ばかばかしい!

「我が社は公平な人事評価を行う。」
そんな感じの言葉に騙されちゃあいけねえ。

公平なんて言葉はこの世にはない。
人が介在するということは確実に不公平になる。


どうせ評価は経営者が、鉛筆ナメナメして決めているのが現実だ。それに評価に対して「公平」という言葉を使うことこそが、過去から現在に不公平な評価が行われているとう証明である。


本当に「公平」な評価をしている会社なら、そもそも「公平な人事評価」なんて言葉は出てこない。
当たり前になっていることは、会話には出てこないのである。

ちなみに私の勤めている会社では、しきりに「公平、公平」発言している。
すなわち、全く公平ではない。

だが経営陣は本心か建前かはわからないが、毎年のように公平な人事と言いながらビックリ仰天の評価をかましてくる。

公平な人事評価を期待する方がバカをみるのである。

 

人が評価する仕組みに公平さを求めるのがそもそも間違いであると思う。プロセス評価とか言うが一生懸命取り組んだかなど誰が評価できるとういのだ???(人の心の中を覗けるのか?)

結局はアピールが上手な人か、声が大きな人だけが評価されるだけである。

(まあ、それが評価基準なのだから真似すれば?と言われるかもしれないがそういった話ではない。)

②現場での評価はお遊び程度である。

会社によって、人事評価のシーズンは様々だろう。
私の勤めている会社は、12月が多い。
(曖昧な書き方には理由がある。それは年によって時期がズレるからだ。記憶の限りでは12月が多いように感じる。)


社畜3年生ぐらいまでは、私も真剣に書いて提出していた。
結果はどうだったか?

惨敗である。
何が敗因かと言うと、まず私が提出した渾身の評価書を経営者及び上司が閲覧していないということ。


いつも評価は一方的かつ思いついたような評価内容である。当時の私は今よりだいぶん純粋だったので、深く傷ついたことを昨日のことのように覚えている。


その時私は悟った。
現場で真剣に働いている社畜の意見なんて、まるで無視であることを。

まあ飼い主(経営者)と社畜(労働者)の関係を理解してからは、それほど不思議でないことだ。

つまり、私たちの自己評価や周囲の社畜の評価などは良いとこ参考程度ぐらいにしかならない。悪ければ誰の目にも触れないままシュレッダーである。

日の目を見ないことほど悲しいことはない。

それ以降、私の自己評価や報告書などは全てコピーペーストの使い回しである。

だから評価が低いんだろう???って声が聞こえる気がするが気にしない・・・

③評価は飼い主(経営者)のさじ加減で決まる。

評価は人がする。
そのため、一定ではない。
好き嫌いもあるし、その日の気分もあるだろう。

飼い主(経営者)といっても所詮は人である。
私たちと何ら変わりはない。

仮に私たちが、評価することが出来るとしたら、公平に評価する事なんて出来ないだろう。きっと自分の好きな人を高くして、嫌いな人を低く評価するだろう。


それに、良く知っている分野の人を高く評価して、良く知らない分野人に対しては無難な評価を下す傾向もあると思う。

誰がしても、「人」がする限りは公平なんてことはできない。私はそのように理解している。

そのため、今年も同じように最低ランクの評価が来ても何ら驚いたりはしない。

まあ、いっつも最低ランクだけどね・・・嫌われてるんだろうね。

④業績(売上げ、利益)で全体の人事評価の割合は決まる。

人事評価は自分の努力以外でも大きく変動する。
例えば、会社の業績が右肩上がりだと、必然的に人事評価も高い評価を受けることになる。

「業績も良いから、今年はAランク、Bランクの社畜を増やしましょうかね社長(ゲス顔)」
みたいな会話が裏で行われている。(たぶん・・)


あながち間違っていないはず。
会社の利益が増えると、その分多くのお金を捻出することができる。
それは事実。

だから、私は評価というのも鵜呑みにしない。
真面目に受け取ると心が壊れてしまうよ。
それか、怒りと恨みに支配されるかだな。

会社の売上げと利益に、評価は大きく左右されることを私は常に忘れない。
私たちの日々の努力など関係ないというのが現実である。

会社はファミリーだなんての綺麗事である。

どこまでいっても経営者と社畜は利害関係で結びついているだけである、そこをいかなる時も忘れてはならない。

⑤絶対的な評価者は現場の社員を知らない。

評価者は誰なんだ??
それに、私のことを良く知っている人は誰なんだ?
ほとんどの場合は、直属の上司か同僚が働きぶりを正確に知っていると思う。


でも、悲しいかな・・・
その私のことを知っている上司・同僚が私の評価に対して権限を持っていることは少ない。


たぶん、どの会社もそうだと思う。
直属の上司が一応は評価するがそんな評価は気休めであり、参考にもされないことが多い。

最終的には、ほとんど話したことがないか、実際の労働を見ていない人が私の評価を決定する。(社長、専務、常務などである)


つまり、私たち社畜の評価というものは経営者レベルの人に全て握られているということである。

断言しても良いが、現場の直属の上司クラスの評価がダイレクトに反映されることはない。

では、どうやればその人事評価を上げることができるのかというと(万年最低ランクのダメ社畜の私には縁のない話ではあるが。)


一言でいうと「イメージ」である。
それだけで、評価が決定されていると思っていい。
これは、私が勤めている会社だけの話しではないはずだ。周囲の社畜たちもそのようである。

イメージアップのためには、「ごますり」「便利屋」「上げ上手」などコミュ力が要求されることばかりである。私にはない能力だね・・・・


万年、人事評価最低ランクの同志よ!
卑屈になることはないよ。それに傷つく必要もない。自信をなくす必要もない。
なんせ、評価なんてろくにしてないから。

⑥そもそも給与と賞与はどこからくるのか?

結論から言うと、給与と賞与は利益から出ている。
そのため、人事評価で最高ランクを獲得しても、会社が赤字であれば報償を貰うことはできない。

万が一貰えたとしても、そういった報償は遅かれ、早かれ消滅する。私たちのお財布と同じでないお金は払うことはできないのだ。


すなわち、給与と賞与というのは根本的な部分では人事評価なんて全く関係ないのである。飼い主(経営者)と社畜(労働者)のちょっとした駆け引きゲームみたいなものだと私は理解している。

補足事項ではあるが、とにかく給与と賞与をたくさん欲しければ、とにかくたくさん儲かっている会社に勤めることが先決である。給与・賞与の額は私たちの実績や能力よりも会社の生み出している商品やサービスの付加価値、稀少性(利益)が重要となる。これらが高ければ高い利益率と利益額が生み出されるため自然に働いている人の給与の水準も上がる事になる。これは個人の能力や実績よりも大きな影響力を持つ。


したがって収益力の低い、中小企業で勤務している限り給与及び賞与の額が報われることはないと思った方が良い。

社畜(労働者)という身分の限界。

社畜(労働者)はお金持ちにはなれない。
自分の時間、職務内容、勤務地など決めることはできない。全て会社(経営者)の言いなりである。

社畜(労働者)である限り限界はある。全て(時間、お金も含む)において自由がない。

会社が昨年に比べ2倍の利益を出しても、給与が2倍になることもない。
優秀な成績を収めたからといって、勝手に休日を増やしたり、労働時間を短縮したりすることはできない。


それが、社畜という身分の宿命であることを示している。どれほど会社に貢献しようが、とてつもない成績を叩き出そうが社畜(労働者)が飼い主(経営者)に変身することはない。それは絶対である。


それこそが、社畜(労働者)の限界である。
社畜(労働者)である限り、お金持ちにはなれないし、人生の時間配分を自分で決めることもできない。

悲しく、切ないが事実であり現実である。

資本主義社会で勝者になるためには、経営者か株主になるしかない。私は株主が良い。

まとめ

結論は何をしようとも、社畜の身分で努力しても公平な評価を得ることはできないということ。人事評価というのは、つまるところ飼い主(経営者、上司)の気分と会社の業績で決まるのだ。

公平な人事評価なんてものはお飾りで実際には何の意味もない。払うお金がなければ評価など、何の意味もない。

そこに社畜の努力は含まれない。
それに、社畜である限りお金持ちになることはない。
乱暴な言い方をすると「働いているから貧乏、貧困」なのである。

資本主義の基本である。
社畜(労働者)は搾取される運命である。
役職がつけば、重責に苦しみ、自由な人間的な時間を奪われ、会社に魂までも捧げることを強制される。

それに給与が増えたところで、今度は政府が黙っちゃいない。日本は累進課税であるため給与額が増えればそれに応じて税金も飛躍的に高くなる。

エリート社畜になっても良いことなどないというのが私の意見である。
会社に時間を奪われ。
政府にお金を押さえられる。
ふんだり蹴ったりである。


いくら考えても、社畜(労働者)という身分に明るい未来はないなと思う。
私はこのブログを書きながら、1秒でも早く「セミリタイア」したいと決意を新たにした。やはり、資産運用をしながら副業も並行して収入の道を複数構築することだな。


つまらない上司の長話(武勇伝・自慢)を聞くと思うと憂鬱でしかない・・・・

 

追記

人事評価というものは上司が変われば180°変わる。なぜなら、私が勤めている会社の上層部がここ数年で入れ替わったのだが、その関係で今まで高い評価を得ていた管理職が全く評価されなくなり、左遷されている一方、今まで左遷されたいた人たちが高い評価を得て高い地位に就くようになっているのだ。

 

ここからわかることがある、それは所詮人の評価基準というのは曖昧なのだ。基準も価値観も違うのだ、だから私を含めた社畜の同士たちよ例え現在評価が低かろうが、雑な扱いをされていようが人として何ら自信を失うことはない。もしかすると会社が変われば何ら問題ないのかもしれない、上司が変わればそれほど迫害されないのかもしれないのだ。

 

すくなくとも会社の評価や上司の説教で自尊心を傷つけられることはないのである。心は私たち人にとって一番大事なものなのだから。