【家族の病気】祖母、母の身体が弱ってから気づくこと。出来る年齢で、出来ることをする大切さ。
祖母が病気になった。
母が病気になった。
それも手術が必要な病気だ。
手術で身体にダメージを受けると時に人は変わる。
今日は、そんな病気の姿を見て、私たちがどれほど幸せで恵まれているか、どう生きたらよいのか、親孝行は出来るときにしたほうが自分も幸せだとか、実際の体験を通じて気づいたことを書いていこうと思う。
・親孝行はお互いが元気なうちにしよう。
・今しかできないことを全力でしよう。
・健康が一番大事な資産だ。
- ①突然に祖母、母の病気。病気は前触れもなくやってくる。
- ②今生きていることに感謝して、今の年齢でしかできないことを自覚する。
- ③お金があっても、健康がなければ幸せではない。
- ④意志を持って何事も行うのが生きることだと感じた。
①突然に祖母、母の病気。病気は前触れもなくやってくる。
病気(手術)で日常の世界は一変する。人が変わってしまうのだ。なぜなら、健康で力強い身体は精神も強するからだ、逆に身体が弱れば心も弱くなるということ。(病気の内容についてはこのブログで伝えたいこととは関係が薄いので触れない。)
1、祖母も病で元気を失った。
祖母は80歳を超えているので、身体の衰えというのはあった。だが、年齢による衰えは非常に静かに緩やかであった。だが、病気(手術)による衰えは世界が変わったかのような変化をもたらしている。
あれほど、元気だったのに。先日あったときは歩いていたのに・・・
そんな感じ。
今はベッドの上でしか生活出来なくなっている。
あれもしたい。
これもしたい。
と本人は言っていた。そんな昔のことではない。つい先日のことである。
でも・・・
きっとできない。
私が涙を流したところでできない。
今まで当たり前に出来ていたことができない。
願っても。
頑張っても。
どうしてもできない。
私が当たり前に出来ていること、日常での面倒なこと全てができないのだ。それはどんな気持ちなのだろうか。想像できない。
祖母は人ができていて、優しいから私にはそんなことは言わないが、きっと辛いと思う。
そう私は思うから余計に胸が痛い。
少しでも私や母に八つ当たりでもしてくれたら、まだ良いが、それもない。
2、母も病で変わった。
本当に急だった。
「来週手術だから。」そんな感じだった。
私もそんな感じなので、まあ手術後1ヶ月もしたら日常が戻ると思っていた。
でも、実際には違った。
母はそれまでのような元気はなく。大好きな犬の散歩まで私に頼むようになった。手術を受ける前は1日に3回散歩するぐらいの元気さだったのに手術後3ヶ月経過しても全く元気は戻っていない。
母いわく、身体の健康が戻らないと、やはり気力・気持ちも戻らないそうだ。
健康な身体というのは、心にも大きな影響を与えているのだと私は思い知った。
本当に変わってしまった。
それがわかるのだ私の母親だから。
健康な状態は当たり前ではないのだ。
それに50代以上を対象としたデータだが、やはり健康とお金というのは圧倒的に重要であることがデータとして出ている。
出典 https://www.sonylife.co.jp/company/news/25/nr_130925.html
やはり健康というのは生涯に渡ってとても重要で大事なものであることがわかる。それに付随してお金というものがついてくるだけだけだと思う。健康であるためにお金が必要、子供や孫のためにお金が必要という意味でのお金が大切だということだと思う。
となると人生において最も大事なものは健康だと断言しても良いのではないかと私は思う。
3、親孝行したいという後悔は恐らくどうしてもあるのだろうが・・・
若いうちから親孝行をして後悔することはない。
データから見てもそれは明らかだと思うし、30代の私でもそう思う。
出典 老後に後悔しない「親孝行」をする方法 もっと親の顔を見に行くべきだった | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
やはり感覚だけでなく、データでも親孝行の大事さがわかる。
たぶん、どれだけ親と同じ時間を過ごしても、恩返しをしたと思っても、きっと私は後悔するのだろう。なぜなら、そういうものだからだとしかいえない。
何でもそうだが、追求していくと何でも次のステップが見えてくる、それをクリアするとまた次が見えてくる。親孝行もそれと同じで、満足のいく結果なんてものはないのである。
産んでもらい、育ててもらった恩など一生かかっても返せるはずもない。
したがって、親孝行には満足やゴールなどはない。それは私たちが子に捧げる愛と同じで、親に対する愛情、感謝の想いが強ければ強いほど後悔の念は強くなる。だがそれは悲しいことではないと思う、人である限り感情とは上手くつきあっていかなくてはならない。感情があるから人であるともいえるかもしれない。
②今生きていることに感謝して、今の年齢でしかできないことを自覚する。
健康で生きているということは嬉しいことだ。無事に年を重ねることは喜ばしいことだ。なぜなら、どれも当たり前ではないからだ。
1、健康に生きていることに感謝。
健康であることは、当たり前ではないし、自然でもない。これは忘れてはいけないこと。なぜなら、現実に不健康によって今までより不自由な生活を余儀なくされていることが多々あるからだ。
たとえば、今まで何でも食べることができたのに食べれない。趣味でスポーツが出来ていたのにケガで満足にできないということは珍しくもない。
したがって、健康であるということは当たり前ではないし、幸せで貴重な時間であるといえる。健康で生きているということに感謝しなくてはならないなと私は感じている。
2、年齢は戻ってこない。今しかできないこともある。
今しか出来ないことはたくさんある。その年齢でしか楽しめないこともあるかもしれない。なぜなら、60歳になって徹夜で労働をする、寝ずに仕事に向かう。
カラオケでオールする。
酒をがぶ飲みして二日酔い
連日の長時間労働。
空手、ボクシング、ラグビーなどスポーツ全般。
過度なダイエットや激しい筋トレなど。
数え上げればキリがない。
どれも60歳過ぎてできなくはないが、コントロールしなければ、どれも命に関わる確率が20歳~30歳のときと比べ格段に高くなる。
たとえば、スポーツの場合には心拍数や身体の筋・健などにも気を配る必要が出てくる。当然若いときにもケアは必要であるが、故障の確率や回復力は全く違ってくる。
したがって、人間年齢による適した遊びや行動があるのは事実である。(これは何も年齢によるあるべき姿を決めつけているのではなく、年齢のせいで不自由なことが起こる現実があることを論じているだけなので
誤解のないよう念のため補足しておく。)
特に体力が関わることは圧倒的に若い方が有利である。若いときに、身体を使うことは精一杯やりたいものだと、祖母、母を見て感じた。本当に先のことはわからないのだ。明日に自分がどうなっているかもわからない。親孝行も出来る内にしておくというのは、その通りである。
3、ダイエットと食へのこだわりについて。
たくさん食べることも元気でなければできない。
ダイエットをすることも健康でなければ満足に出来ないかもしれない。なぜなら過食もダイエットも健康な身体があってこそ成立することである。
たとえば、ベッドから出られないような病気になった場合、毎食、毎食ジャンクフードをたらふく食べるなんて贅沢はできない。身体が受け付けないし、そもそも食欲もわかない。それは祖母や母を見ていると痛いほどにわかる。
あれほど「食べるだけが楽しみや!」といっていた祖母。「美味しいもの食べるのが一番の幸せ!」といっていた母が今では小食になっているし祖母にいたっては、ほとんど固形食は食べない。
したがって、自分の今の状態でダイエットや過食をするという選択肢があることは恵まれているのである、病気になり身体に元気がなくなると、そんな選択肢など存在しないのである。やりたくてもダイエットは出来ないし、過食したくても身体が受け付けないのである。
祖母や母を見ていると痛感する。
ダイエットしたい!
食べ過ぎた!
といった行動・悩みは贅沢であることに。
大量に食べられるということも幸せなことだ。
③お金があっても、健康がなければ幸せではない。
ここでは、老後のためにお金が必要か不要かという私の考えとお金がなかった時に困ることを私なりにまとめている。
1、お金があっても使う身体がなければ残念だ。
今と老後のお金のバランスも大事だ。若いうちから倹約・節制に努め将来の資産形成に励むことは尊い行為だが、これもバランスを欠くと将来に後悔することに繋がる。
将来のために、今を犠牲にしていざ定年後になってみると身体がボロボロで医療費には困らないが、それ以外の使い道がないというのも何か寂しい。バッドエンドとは思わないがハッピーエンドとは言えないし、それまでの人生の家庭もハッピーとは言えないのではないか。いくらお金があっても使う元気がなければ宝の持ち腐れといえる。
出典 「老後のために」今の生活をどこまで犠牲にするべきなのか? | 富裕層向け資産防衛メディア | 幻冬舎ゴールドオンライン
老後を心配して、現役のうちに節制、節約しすぎるのは良くない。なぜなら、もしかすると老後はずっとベッドの上で過ごすことになるかもしれない。こればかりは本当に予測できないのである。
私の祖母、母親もつい先日までは元気だったのである。それがちょっとした「病気」というきっかけで世界が変わってしまった。祖母も母親も何でも食べ、元気よく動いていたが、手術をきっかけに急に元気を失っていまった。そうなると老後にしたいことがあっても身体が思うように動かないのでしたくてもできないのである。
したがって、若い内や現役の時から老後のことばかりを考え過ぎるのは問題である。ここで強調したいのは、老後のことを考えすぎることが問題だと言っていることである、老後のことを考えるなといっているわけではない。
何事もバランスである。老後のことを優先させすぎて今を楽しめていないならその考えは改めたほうが良いと私は祖母、母の姿を見て感じた。私が年を重ねた時に元気よく、健康体で活動的な状態とは限らないのである。
その時に、後悔しないためにも現在と老後とのバランスを考えて日々行動することが大事だと痛感した。この幸せのバランスは人それぞれ違うので自分で判断するしかない。
私の場合は、老後のことに意識が傾いていたので、今を大切にすることを意識して生活している。私の身体がいつどうなるのかは誰にもわからない。だから毎日を精一杯生きることが私にできる唯一のことなのだ。
2、だがお金もなく不健康なことは地獄である。
「お金だけあっても・・・」ごもっともな意見である。だが「お金もない」というのは、まさに地獄である。なぜなら、不健康でお金もなけらば満足な医療を受けることができないことになる。まさに門前払いである。資本主義の残酷な現実である。お金がないせいで命を失うことだってあるのだ。
したがって「お金があったところで使えなければ意味がない!」といって貯蓄をせず、散財することは不幸の土壺にはまることといえる。確かにお金ばかりがあっても仕方ないことものかもしれない。だが、お金がないことはそれ以上に過酷で残酷な現実が待ち受けていることも理解しなくてはならない。
やっぱり不健康でもお金はいるよね。
せめてお金だけでもという気持ちもわからなくもない。
④意志を持って何事も行うのが生きることだと感じた。
自分で行動を決め!行動する。
それが生きることだと感じた。
1、意志を持って何かをすることが大事であり幸せある。
社会人になり就職すれば自動的に多忙なビジネスマンになれる。何も考えなくても日々は流れていくし、何となくだが社会貢献しているような気にもなる。なぜなら、何も考えなければ、労働という渦に飲み込まれているからだ。
通常のサラリーマンであれば週に5日勤務で8時間労働で残業もある。そうなると出勤の日は、ほぼ労働だけで1日が終わることになる。しかも、それが日本人の基本モデルであるので違和感を持つことも基本的にはない。
したがって、よほど意識しない限りは学校を卒業して定年退職するまではこの生活を繰り返すことになる。
(乱暴な表現だがおおむね合っていると思う。)
だからこそ、何か少しでも毎日意志を持って好きなことをするというが大事なんだと、母の病気を身近で見て感じた。何かをすることが全てにおいて正しいとも思わないが、人生にはタイムリミットがあり、常に砂時計の砂は落ち続けているのである。
それを思うと出来る時に、したいことを全力ですることは自分自身にとって、とてもとても幸せなことではないかと私は思うのだ。
自分が万が一動けなくなったときに後悔しても遅いのだ。
2、何もしないことの決断も実に幸せだ。
意志を持つというと、アクティブなイメージがあるかもしれないが、別に何もしないという選択でも良いのだ、何かをするから正しい、何もしないから間違っているなんて考えはナンセンスである。
「何もしない!」
そう決断することも実に幸せなことである。
結果的に何もしないのではなく、自分が何もしないと決めて、何もしないのだ。それは贅沢であり幸せなことではないだろうか。
3、生きる意味とはおおげさだが・・・
生きる意味というと少し大げさであるが、まあ適当な言葉が見つからないので良しとする。ただ、別に使命感にとらわれる必要もないし、気負う必要もない。人生は自由である。好きなように生きるのがすべてだ。
でも、自分の意志で好きなように生きることが幸せだと私はおもう。生きる意味は何でもいい。高尚なボランティアに身を捧げる必要もない。自分がやりたいと思うことを好きなようにやることが生きる意味だと私は勝手ながら思っている。
生きる意味・・・
それは自由に生きることだ。
まとまってはいないが本気でそう思っている。